(オードリーヘップバーン ローマの休日より)
ん〜〜〜
「自分の感覚って正しいのかな?」とか思う瞬間があるんだよねぇ。
「時代遅れなのかも?」とか思ったりしています。(T.T)
皇室の新しいご結婚には「ご結婚おめでとう!」と言いたいです。
と一方で、非難している人も多くて。「なんで?」とか感じたりします。
自分も長く生きてきた人に入ってしまっているのか?
自分が考える皇室の結婚って「
オードリーヘップバーンのローマの休日」だよなぁ。
身分の垣根を越えられない…だけど、出会った…その一日を大切なものにする。
お互いがお互いの立場を大切にする様な視点なんだよな。
でも今は違うのかな?
そんなことを考えると自分の考えって時代遅れなのかもなぁ?(´ヘ`;)ハァ。
でも「今の常識が違うんじゃ?」と思いながら…
自分の考えを確かめたくて色々なコラムを読んでいます。
今回は2つのコラムを読んで…「このままで良いんだ」と妙に納得しています。
そんなことを題材にします。コラムが2つ入るので今回も少し長くなります。
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「エゴの連鎖」を止めれば心穏やかに生きられる
(綿本 彰先生: 日本ヨーガ瞑想協会会長のコラムより)
(前の部分を略)
新入社員がすぐに会社を辞めてしまうという話が当たり前に聞かれるようになりましたが、私たちの「苦痛に対する耐性」は、過去最低の状態になっているように思います。自分の思いどおりにならないことに対して、不幸なくらいにキャパシティーが低下してきているかもしれないのです。
自然の中、村の中で生きていれば、1人ひとりの思いどおりになることのほうが少なく、不合理なこともある中で、それぞれが折り合いをつけながら生きていたはずです。
その環境の中で、人々は「お互いさま」「おかげさま」と心と心で支え合い、「あの人があのときに支えてくれたから、今回は全力で助けてあげよう」と、自然に相手を思いやるような「人情の循環」があったかと思うのです。
しかし今では、人情に代わって法律やルール、サービスが整備されたため、いろいろなことが「思いどおりになってしかるべき」という感覚の人が増えています。
もちろん今の社会において、ルールやサービスは不可欠ですが、それらが人の心と心のつながりから生み出される「ありがたいもの」ではなく、「当然の権利」としてとらえる感覚を生み出しているのも否めないのです。
「私のこの権利は守られてしかるべきである」という感覚で、ちょっとしたことでも相手を責めたり訴えたりするようになり、相手の立場や気持ちを推し量り、思いやり、尊重するという気持ちが希薄になり、心がすさみやすくなってしまっているのです。
同時に、自然の驚異や不合理極まりない要素を取り除こうとする、強い使命感や信念、生きがいといったものを見いだしにくくもなり、これが「苦痛耐性」を低くしている大きな要因になっている気がします。
その結果、こんなにも便利な世の中であるにもかかわらず、自死を選ぶ人は後を絶ちません。これは、構造的な問題ととらえても過言ではないと私は考えています。
(後の部分を略)
→ まさに…この通りの様な感覚があるんだよな。
自己主張ばかりが強くて…他人のことを考えない世の中が今なんだろうか?
それって…可笑しい様な気がするよな。
いままで家庭のいざこざまで警察介入してきた時代があっただろうか?
私的な家庭まで赤の他人の力を必要にさせてる時代の不自然さ、だよなぁ。
それを法制化してしまう政治、その場しのぎの対応の成れの果ての姿では?
一方では、それを皆で選んで来た訳だから…選挙にも行かなくちゃね。
皇室の結婚も…それで良いじゃない。それはそれで大変な人生なんだから。
それを「税金は自分たちが払っているものを勝手にするな!」との意見が多いのに驚き!
皇室って大変だと思うよ。自分の意見も言えないし狭い世界で暮らさなくてはならない。
これを普通の人がしたら…根を上げると思うんだけど。違うのかな?
まぁ…ローマの休日感覚の自分個人の視点から見れば、
ご自分達の立場をわきまえない結婚には違和感あるけど、ね。
そんな大変な部分をご自分達で背負われるんだから祝福してあげれば良いと思うな。
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私たちがとれる選択肢はウイルスと生きること
福岡 伸一先生 : 生物学者 青山学院大学教授、ロックフェラー大学客員研究者
伊藤 亜紗先生 : 美学者、東京工業大学教授
藤原 辰史先生 : 歴史学者、京都大学人文科学研究所准教授
(前の部分を略)
コロナ・パンデミックでも、「生命を守る」という錦の御旗の下に、ニューヨークをはじめ、多くの場所で移動や集会の自粛が求められ、休校によって子どもたちが教育を受ける権利が制限されました。
私が今非常に危惧しているのは、新型コロナウイルスというピュシス(自然)の動きを封じるために、AIによる監視やデータサイエンスによって、私たちの行動履歴を可視化し、接触点をデータ化して感染爆発を抑えようという動きが進められていくことです。
そうやってロゴス(論理)の力を強化するということは同時に、移動の自由や接触の自由、すなわち自由な生命体としての私たちのピュシス(自然)を奪うものでもあると思います。
ウイルスは人間や他の生物とともに長い時間をかけて進化してきた、ある種の生態系のパートナーです。時には害を成すこともありますが、多くの益も成しているのですから、あるウイルスをアルゴリズムやデータサイエンスといったロゴス(論理)の力によって完全に制圧したり、撲滅したり、消去したりすることは不可能です。
たとえ新型コロナウイルスがなくなったとしても、新しいウイルスはこれからも次々と出現してくるでしょう。そう考えれば、ウイルスに対して無益な闘いを挑むべきではない、ということが言えると思います。
(後の部分を略)
→ ん〜〜〜この感覚だよね。うん!(^-^)
ウイルスがいたから人間が生まれたんじゃない?
それを敵視して闘っている姿は…漫画に他ならないと感じるんだけど、なぁ。
ウイルスを受け入れて、その必然性を探せば良いわけじゃ?
その必然性を消してあげれば…ウイルス感染って怖くないんじゃないかと?
戦時中と同じ様に…ウイルスと闘う姿を煽る政治・マスコミの姿勢には疑問しかないよね。
感染症の専門家の人達にも…この様な視点は持って欲しいよね。ホント。。
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まとめ
まぁ、個人的な意見なんだけど、さ。
自己主張をする前に自分自身を見つめないと…単なるワガママ人間なんじゃ?
これが若者だけでなく、良い年をした役員勤めの高齢者も同じなんだよなぁ。
良い年をして「ご自分の行動から、その結果が出たこと」を理解出来ない。
「自分の行動を見つめないことからの結果で悩んでいる姿」なんだけどなぁ。
ウイルスに対しても、人間の勝利も敗北も無い訳なんじゃない?
自分たちの身体を作ってきたウイルスへの視点はないよな。
これも自己主張だけで「自分達は悪くない! ウイルスが悪い!」では、なぁ?
まともじゃないよなぁ。。。ホント (´ヘ`;)ハァ
ウイルスよりも人間の感覚に危機感を覚えるんだよね。ホント。。。
(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
PS1: カメラをぶら下げてくる若い男性患者さんに!(^。^/)ウフッ
自分は…こんな写真を撮っていましたよん。
三脚にカメラを固定して30秒程度、露出させる、と?
湾岸道路の夜景です…綺麗だしょ?(^0^)
もう一つ…
上野広小路…松坂屋前の夜景だよね。
フォーカスを動かして撮ると…こんな感じかな。
動きのある写真が好きなんだよねぇ。。。(^_-)ネッ
PS2: こんな感じの記事だと…
GenesisのLand of Confusionなのかな?
バリライト(動いて色が変わるライト)が素敵!
今では当たり前の様に舞台に使われていますが…
Genesisのコンサートで初めて使われたと言われています。
武道館のGenesisは格好良かったなぁ。。。